私と花映塚コミュニティ(前編)

私はこれまで13年ほど花映塚を遊んできました。その中で自分が見てきたこと、聞いてきたことを、時系列に沿って書き残しておこうと思います。

 

この記事は、過去の花映塚コミュニティについて記録を残すことを目的としています。過去に遊んでいた人たちはどんどんいなくなっていく。当時書かれたブログも、サービス終了などで見れなくなりつつあります。なんなら自分自身でも当時のことを忘れかけていることに気づきます。

 

花映塚は私の青春とともにありました。記録も記憶もなくなって、当時のことがぼんやりとしていくのは悲しい。ぼんやりとしたところを、変に美化したくもなければ、真っ黒にしたくもない。この気持ちは共有できるでしょうか?

 

自分がゲームを始めた2009年を起点に、全体を4つの期間に区切って書いていきます。これはこの記事のための便宜的な区別です(し、でしかありません)。

① 初期(2009中頃~)

② 中断期(2011年末~)

③ 再開期(2015年初め~)

④ DEHANA期(2016年10月~)

 

先にふたつだけ注意を。

その1。記事では、あくまで自分が見聞きしてきたことを書きました。私の知っていることが事実とは異なるかもしれない。私の記憶違いもあるかもしれない。ただ、過去を偽って書くような不実のないよう努めました。間違いがあれば、どこでもいいので私に届くようにコメントしてほしいです。

 

その2。コミュニティはいつでもひとつではありません。同時期にこのゲームを遊んでいながら、私とは接点がない人もたくさんいたはずです。私が描くコミュニティが当時のすべてだったと思わないこと。

 

この文章自体はいわゆる自分語りですが、ここにもう少し大きい別の意味を認めたいとも思っています。それについては、追ってまた書いていくつもりです。

 

では見ていきましょう。

 

目次

 

 

初期(2009中頃~2011年中頃)

  • 「表」のニコ生

    • ニコニコで花映塚ネット対戦をするひとは、誰しも配信をしていた。
      • 特別な野心があるわけでもなく、ただ対戦相手を見つけるためにみんなが配信していた。
      • 配信は、当時の新しい遊びの一つだった。WME(Windows Media Encorder)など特別なツールを必要とせず、ネットワークに関する知識も要らず、手軽にできることが大きかった。
        • 1枠30分で区切られているので気楽にできるというのもあった。同時にそこがバカにされていたのだが(30分ごとに枠を取らないといけないなんて不便すぎる、と)。
        • 花を遊びたい人はいくらでもいたので、最初からある程度の視聴者を期待できた。

 

    • ニコ生花映塚対戦総合」コミュニティには、花粉症さんによって当時のプレイヤーがリストアップされていった。
      • このリストは申請制だったので、実際にはもっとプレイヤーがいた。
      • 妖夢使いのKASSさんがカリスマ的な人気を誇っていた。実力もニコ生随一だった。
        • 自分が初めてネット対戦した相手もKASSさんだった。凸する前にかなり勇気を振り絞ったし、対戦中は心臓がバクバクだったし、終わってからもしばらく放心していた。
        • こういうゲームを、家にいながら知らない人と対戦できることに衝撃を受けた。すぐにやみつきになった。

 

    • ニコ生特有の文化があった。
      • ニコ生はニコ動の延長にあり、ニコニコ文化にどっぷり浸かっているひとが多かった。
        • IOSYSの東方アレンジを聞いたり、遊戯王のMADを見たり、テニミュの空耳動画で盛り上がったり。「真夏の夜の淫夢」もこの頃ニコ動でも流行りだした。*1
      • 年齢層としては高校〜大学生が多かったようだ。
        • 自分は当時のコミュニティでは最年少だった。それもあってお兄さん、お姉さん方になにかと良くしてもらっていた。ご飯に連れて行ってもらったり、引っ越しを手伝ってもらったり。
      • 人気の配信では凸戦争が起こった。
        • どの配信でも1人あたり1戦で回していたが、そもそも30分という枠の中では、対戦できる回数はたかがしれている。
        • 前の人の対戦が終わってから、adonisで対戦申し込み(凸)をするタイミングが重要だった。
          • だいたいいつでも数人が凸をしようとしており、ほとんど抽選のような状態だった。……はずなのに、妙に凸が通る人がいた。
          • 配信者が対戦受付をしたタイミングで、うまいこと自分が凸しなければならない。当時の配信にはまずまずのラグがあったし、配信者によって受付を開始するタイミングも異なる。それらを考慮して、ここだと思うタイミングで凸する。
          • あげくのはてには「凸連打ツール」なるものが開発され、公開された。……が、みんな使ったのでたぶんあまり意味がなかった。
        • 凸できなかった人や、一度配信者と対戦した人がコメント欄で募集することがしばしばあった(枠内募集)。
      • 朝枠という習慣があった。
        • 登校、出勤前の6時~7時台に配信がはじまったりする。この時間はそんなに人がいないので、比較的ラクに対戦できた。寝起きで集中力が高く、いい試合ができることが多かった。
      • お金を払って予約枠を取った。
        • 当時のニコ生は配信枠を予約するのにお金が掛かっていた(バカにされポイントその2)。その代わり、予約枠は追加料金なしで6時間まで配信を延長できた。
        • 土日に大会を開くときは、主催者がこの予約枠をよく使っていた。

 

    • IRC勢とニコ生勢で、コミュニティが大きく二分していた。
      • 花映塚の発売当初からやり込んでいたプレイヤーはだいたいIRCにいた。それに対してニコ生勢は新参が多かった。お互いのあいだにあまり交流はないようだった。
      • 私もIRCには常駐していなかった(まれに入ってはいた)。その代わり「東方弾幕実況」(なんでも実況板)や、「花映塚ネット対戦スレ」(したらば掲示板)に足を伸ばしていた。
        • したらばの対戦スレはハイレベルのプレイヤーばかりそろっているという噂だった。恐る恐る凸をしていた記憶がある。

 

  • 「裏」のStickam

    • プレイヤーがたむろする場所として、配信サイトのStickamがほとんど毎日使われていた。
      • ニコ生と違って、こちらは1枠の時間に制限がない。だらだらとチャットをしたり、延々と対戦したりしていた。
        • とはいえ、ニコ生のプレイヤーが全員Stickamにいたわけでもない。一部のプレイヤーが身内的に集まっていた。
      • 誰かがニコ生で1枠立てて、Stickamでは身内が集まっている状態が基本だった。
        • そのときからニコ生のことを「表」、Stickamのことを「裏」と呼び分けていた。
        • 常にニコ生に1枠はあるようにはしていた。なぜかは分からないが。
    • 私のTwitterはこのコミュニティと繋がるために作った。2009年の12月に開設したが、周りでいっしょに遊んでいた人たちもこのあたりで一斉にアカウントを作っていた。

 

  • 毎週末のオンライン大会

    • ほとんど毎週末、誰かしらが大会を主催して、みんなで参加していた。
    • 同キャラオンリー大会シリーズもやった。確かチルノを除く、15キャラ分開催した。
    • 同人誌『DEHANA』で紹介した「お花見タクティクス」などの特殊ルールもこのとき発明された。
    • 変わり種として「偽名大会」があった。
      • 当時から、adonisのnameをコロコロと変えて凸する文化があった。「偽名勢」というばかばかしい言葉もあった。
      • そういうわけで仮面舞踏会のように、誰が誰だか分からない状態で大会をした。IPでばれないようにルータを再起動して臨んだ。他のプレイヤーの癖のある動きをマネして相手を騙そうとするなど、かなり盛り上がった。
      • 50名が参加して、優勝したのは「ヒメコンゴウインコ」さん。誰だよ。

 

  • 剛魂(ごうたま)

    • 秋葉原で行われていた花映塚のオフ対戦会。だいたい月一で、土曜日の夕方に開催されていた。
    • 「東方波天宮 サーパラショップ秋葉原店」の一角を借りていた。店舗の奥の方、数畳のスペースにPC一台で対戦を回していた。今はもうこの店舗はない。
    • 関東圏のニコ生勢が集まる場になっていた。中部からバスで来る花勢もいたと聞いた。
    • この会は、ikuoさんが運営してくれていた。当時はたくさん迷惑を掛けてしまった。けれどもこういう場を作ってくれて、ほんとうにありがたかった。このときの楽しい時間は、今でも強く記憶に残っている。
    • 「剛魂」を「ゴウコン」と読んで、「今日はゴウコンがある」と呟くとリア充っぽく聞こえる、というネタがあった。



中断期(2011年末~2015年初め)

  • 2011年10月の「紅楼夢合わせオフ」前後を境に、身内の熱が徐々に引いていった。
    • 私はというと、身内でいざこざを起こしたりヘラったりして、コミュニティから少しずつ離れていった。
    • ニコ生との関わりもなくなっていった。剛魂で出会った人たちとの繋がりはかろうじて残っていたが、もうほとんど花映塚を遊んでいなかった。
      • 公園でブーメラン遊びをしたり、バケツプリンを作ったり、徒歩で山手線一周したりした。なんだかYoutuberみたいだ。

 

(つづく)

*1:淫夢」の歴史については、竹本竜都「野獣先輩は淫らな夢を見るか?ー<真夏の夜の淫夢>概説」(限界研『ビジュアル・コミュニケーション 動画時代の文化批評』pp.331-335)に詳しい。私たちは淫夢が流行しはじめる、ちょうどそのときにニコ動で遊んでいた。