花映塚の攻略文章とはなにか

目次

※この記事は『DEHANA Link』収録の同名記事とまったく同一です。

 

はじめに

私は花映塚の攻略を6年ほど書いてきました。ここでは私が攻略をどのように考えているか、どういうことを目指して書いてきたのかを説明してみます。さしあたり、花映塚の攻略について書きます。別のゲームでは同じようにはいかないところがあるかもしれません。


この記事には「狭義の攻略文章」と「広義の攻略文章」というふたつの言葉が出てきます。先に狭い方が出てきます。途中で話題が変わるところがあり、そこから広い方の話になります。


言語という大きな隔たり

攻略は勝利や上達を目的としています。そして、ゲームを遊んでいるときに私たちが身体的・感覚的に経験することを言語に落とし込み、他人に理解できるように説明する、攻略文章とは一般にそのようなものです。プレイしているときに考えていることや意識していることはそのままでは伝わりませんが、言語にすることで伝えることができます。


ここで、うまく操作できることと、経験を言語化できることの間には大きな隔たりがあります。上手なプレイヤーが上手く言語化できるとは限りません。天才肌のプレイヤーを思い浮かべてみれば、むしろその言葉が伝わらないということもあるでしょう。よく「ゲームが上手い=その人が言ってることが正しい」と思われがちですが、そうとは限りません。上手にプレイすることと言語化することは別の技術です。


「攻略文章」とはなにか

ではどのような文章が「攻略文章」になるでしょうか。これは攻略文章の定義を問うているように捉えられかねませんが、いま話したいのはどういう文章がプレイヤーにとって望ましいかという価値論的な問題です。自分が読み手だったらどういう攻略文章がうれしいかな、くらいの問いとして考えてみます。


まず確認したいのは、解析データをただ羅列するだけでは攻略文章にならないということです。たしかにデータは攻略の土台になる重要な情報です。解析勢の努力のおかげで、ふつうに遊んでいては分からないかなりの部分が、具体的な数式や数値まで明らかになっています。キャラクターの判定の大きさ、白弾や幽霊の発生のメカニズム、リリーが降りてくるタイミング等々。


しかし、データをいくら並べたところで、それだけでは攻略が完了したとは言えないように思われます。それは物理法則を知識として完全に理解している人がいたからといって、その人が野球をうまくプレイできるわけではないことと類比的です。データそのものよりも、それがどのようにプレイの助けになるかのほうが、攻略文章においては重要でしょう。


次に別の例として「弾に当たらないように気をつけよう」といったゲームのルールをそのまま書いてしまうのも違います。そんなのは当然だと思われるかもしれませんが、攻略文章を書いていると、どうもそのような内実の乏しい話になってしまうことがあります。

 

例えば「交差弾は危険だから意識しよう」という文はどの程度攻略になっているでしょうか。他の弾幕ではなく「交差弾」に注目するように言っているからまったく無内容とはいえませんが、不親切です。『DEHANA』「用語集2021」の「交差弾」(p.135)という項目ではこう書いています。「交差弾はいま閉じている部分が一瞬後には開くので、閉じている部分を目指して移動すると避けやすい」。この一文はそにつくさん(@Sonitsuku)が提案してくれたものです。「交差弾を意識する」ということの内実が「いま閉じているところの下に移動する」と具体的に書かれており、良い攻略文だと感じます。


ここで先取り的なテーゼですが、「プレイしているときの自分の意識」が攻略文章のコアにあってほしいなと思います。ゲームプレイのその限定された時間に、どういうことを考えればよいか、そしてどういうことは考えなくてもよいかをはっきりさせること。


まとめると、攻略文章では、それまでの自分のプレイ経験とデータとを総合して、プレイ中に意識することを絞ることが目標になります。次のように言い換えてもいいでしょう。経験にデータの根拠を与えること、あるいはデータを経験によって解釈すること。


ティアリストは何のために?

攻略文章の定番といえばティアリストです。様々なゲームで、リリースされるやすぐに議論になるテーマです。花映塚においては、そもそもティアリストにどのような意義があるでしょうか。

 

花映塚は非対称なゲームです。16人の性能の異なるキャラクターから2人を選んで対戦します。つまり最初から有利・不利が発生しています。そしてそのような有利・不利の状況認識から、勝つために自分の取る行動を決めなければなりません。このときティアリスト(正確には「キャラクター相性の知識」)が必要となります。例えば「この組み合わせは自分が不利だからどこかで厳しい気合避けをしてでもゲージを温存する」とか「有利だからスペルポイントは切らずに開花状態を維持する」というふうに判断をするわけです。


しかしそのうちに、そこにさまざまな人間的な意味付けがなされていきます。「どのキャラが一番強いのか」、たとえそのゲームをプレイしていなくてもそういう情報を得られると私たちはどこかで満足します。さらに一歩進んで、「強いキャラを使っているなら勝って当然だ」とか「相性有利で負けたら恥ずかしい」というように考えるプレイヤーも出てきます。こうしたおしゃべりがコミュニケーションや楽しみに繋がる限りではいいのですが、プレッシャーや遊びの制限になるようであればむしろ避けたほうがよいでしょう。


何を目的とするかによって攻略の内容が変わる

ここから少し話が変わります。

 

花映塚の攻略本を作っていると「17年前に出たゲームについてまだ書くことがあるのか」という声を聞くことがあります。たしかに花映塚について、既にたくさんの人が攻略文章を書いています。しかし既に書かれていることが自分の目的に適っているとは限りません。


私たちがゲームを遊ぶ目的はさまざまです。誰かに勝ちたい、大会で優勝したい、気分良くなりたい、誰かと繋がりたい、ゲームのシステムを理解したいなど、ちょっと考えるだけでもいろいろです。しかし例えば「勝ちたい」ひとつを取っても、どのように勝ちたいのか。絶対このキャラで勝ちたいという人もいれば、他の人とは違う動きをして勝ちたいという人もいるでしょう。


自分の目的は自分のものです。自分の目的に適うように、自分で攻略文章を書くことには意味があります。それはパーフェクトである必要はなく、その時点までの成果を明確にするために書くということもあるはずです。


ゲームを楽しむことが目的ならば攻略の内容も拡張される

しかしこれでは、上で挙げていた「攻略文章とはプレイ経験とデータの総合」とは少し話が違うのではないかと思われるかもしれません。その通りで、私はもう少し広い意味での攻略文章があると言おうとしています。


私たちがゲームをプレイする目的が勝敗や成長に限らない以上、「攻略はすべて勝利や上達を目的としている」というのは一面的な見方です。私たちは楽しむために遊んでいるのではないか。勝敗にこだわるのも、それが楽しいからではないか。楽しさという根本的な目的を目指す文章が攻略文章であると、広く捉えたいのです。

 

花映塚にどんなバグがあるかとか、海外で花映塚がどのように遊ばれてきたかとか、そういうことを知ることで自分たちが楽しいと感じられるのなら、それもまた攻略と言っていいでしょう。だから『DEHANA』は「総合」攻略本と称しました。単に勝敗や上達のためだけではなく、花映塚を楽しむための本を作ろうとしたからです。


おわりに:攻略文章という二次創作

攻略文章は、ゲームがあってこそ生まれる文章なので二次創作です。また、攻略文章を書いたり読んだりすることは、ゲームを身体ではなく言語によって遊ぶという、通常とは異なる楽しみ方です。その意味でも二次的と言えるでしょう。もちろん「二次」であることは優劣とは関係ありません。ゲームを楽しむ方法のひとつとして、攻略文章があります。


攻略文章には、そのゲームを遊んできたプレイヤーの経験が含まれています。その経験が含まれているから、人生の中で時間をそこに費やしてきたことを掛け金に、価値があると言いたくなります。言語化に伴う辛さもありますが、この楽しみ方をもっと多くの人がしてくれたらうれしいなと思って、私もまたこうして攻略文章を書いています。